蒲生の話し

蒲生地区に伝わる、昔からのあれやこれや・・・

日本の小さな隠れ里のひみつのお話をお楽しみください。

其の壱 木食上人の造像


江戸後期に千体仏の造像を発願し、全国各地を遍歴して特異な木彫り仏を残した、甲斐(山梨県)の生まれで遊行僧であった木食五行(行道)上人〔享保3年(1718)~文化7年(1810)〕の足跡を辿ったドキュメンタリードラマを「テレビ山梨開局二十周年記念」として、昭和63年秋にテレビ山梨が製作されました。その時、上人が訪れた綺田町で大木に観音菩薩を彫るシーン撮影のためケヤキの幹元に子どもを抱いた縦1.5m、横52㎝の観音像と裏に2体の子どもの像が彫られました。
蒲生地区には、天明6年(1786)木食上人68歳の時、北陸から紀州への途次鋳物師町の庄屋宅に逗留し、竹田神社に木製阿吽の狛犬一対、庄屋に如来像(「天明6年10月3日」の日付け)を残っています。

子安観音(綺田)
子安観音(綺田)
木食狛犬(鋳物師)①
木食狛犬(鋳物師)①
木食狛犬(鋳物師)②
木食狛犬(鋳物師)②

其の弐 川合東出町の石棺仏

川合東出町地蔵堂には古墳の家形石棺の蓋の裏に鎌倉時代(1192~1333)後半の様式を持つ地蔵菩薩が彫られており石棺仏と呼ばれています。
石棺仏は、高さ73.5㎝・幅73.0㎝・厚さ32.7~47.7㎝で滋賀県では3~4基ほどが認められる程度で非常に珍しい石造物です。

石棺仏(川合)
石棺仏(川合)

其の参 川合橋のモニュメント

川合橋北詰めの道路側の植え込みの中にかわいらしい人形が二つ音楽を奏で無邪気に遊んでいるモニュメントがあります。
 平成5年(1993)に川合橋の掛け替えに伴う旧道の残部分にツツジなどを植栽し、交通の快適性の向上と風致的美観の向上を図ると共に路に対し愛着心を持ってもらうようにと植樹とモニュメントが設けられました。
モニュメントは、「夢の創築」と名付けられ、制作者は金属工芸家の平良一巳氏(日野町在住)です。

川合橋モニュメント
川合橋モニュメント

其の四 茅〈ち〉の輪くぐり(夏越〈なごし〉の祓〈はら〉い)

旧暦6月の晦日〈みそか=月末〉神社の境内に茅〈ちがや=ススキに似た草〉で作った大きな輪をくぐると、災いを祓い新たな自分に生まれ変わるといわれています。
蒲生地区では「下麻生町」「大塚町」「市子殿町」は円形、「田井町」は四角形の茅の輪が作られる。下麻生では、小学生の男子が茅の輪を作って拝殿を三周し神社前に設置し、茅の輪くぐりを行う、その後神主が束にした、綯〈な〉った茅〈ちがや〉を肩に掛け茅の輪くぐりが22回行われる。7月31日かそれに近い休日に行われる。


其の五 山の神・野の神

春から秋にかけて山から下って田(野)の神となる山の神は豊穣をもたらす農耕の神として野の神と山の神はセットである。

この祭祀は地方によりかなり異なる。

 

山の神祭祀は、1月2日~5日の間に行われ、木の枝を利用して男体と女体の御神体をつくりその字の山すその定められた場所(山の神の自然石碑が多い)前にご神体を祀る棚を設けご神体と供物・灯明があげられます。
野の神祭祀は、農神ともいわれ文字通り農業の神で、農耕に牛馬を使っていた頃は田植え前に野神に供物(餅・ちまきなど)を供えそのお下がりを牛に食べさせ牛の健康を祈願しました。


8月中旬に石碑・木・祠などの前で野神祭祀が行われ祭祀の棚にはササギ豆(小豆よりもやや小ぶりで浅黒い豆)を甘く煮た物・水瓜を塩水に漬けたもの・腹開きにしたトビウオの干物・しんこ団子(最近は洗米が多い)などが供えられ、野神の酒宴が終わりになると松明に火をつけて御神木まで練り歩き松明を御神木に向け勢いよく投げつける儀式を行われます。また、この祭祀では、子ども相撲が行われ当番役の子どもが相撲を取り一勝一敗一引き分けの勝負となるようにするのです。

 

山之神(大塚)①
山之神(大塚)①
山之神(大塚)②
山之神(大塚)②
野之神(岡本)
野之神(岡本)

其の六 道標・道標銘

最近の道しるべは主要道路の分岐点近くに自動車から見やすく大きな標示がされていますが、昭和時代の中ごろまでは石(多くは花崗岩)で作られ歩く旅人には重要な標示でありました。このように道案内を主にしたものを「道標」、お地蔵さんなど信仰に関わる石造物に道案内を記した「道標銘」があります。
蒲生地区内では11基が確認されていますが、道標で大きな物として川合町の火袋は木製で常夜灯を兼ねたもの、石塔町の石製の燈籠形のほか、石塔寺への道しるべが多く石仏に刻まれた道標銘など5基、まだまだあった記憶の方もおられると思いますが、昭和40年~60年代に道路拡幅や道路舗装が拡充されたとき多くの道標が姿を消しました。これは蒲生地区に限らず全国的にその傾向にあったのですが、いま蒲生岡本町では数年前から計画的に道しるべのほか本陣・旅籠・商屋などを石柱で復原されてます。道しるべの多くはその土地の交通や歴史を紐解く道しるべでもあるのです。

石塔寺道標(石塔)
石塔寺道標(石塔)
八日市みち(石塔)
八日市みち(石塔)
道標(川合)
道標(川合)

其の七 蒲生地区の聖徳太子伝承

木村町の柳宮神社境内の一段小高い場所に「太子さん」と親しまれ、単独の社として祀られているが余り知られていない。謂われを略記してみると『聖徳太子が大阪四天王寺を創立の時、八日市瓦屋寺あたりで瓦を焼くため老蘇宮(近江八幡市安土町)を仮御所としてお妃高階姫と棲まわれていて、お妃が臨月を迎えられ、難産で十日余り苦しまれた。
太子は心を痛められ「仏法への信心を深め斎戒〈さいかい〉して身を清め法衣を着て仏様に一生懸命お祈りしなさい、そうしたらきっと心安らかになって安産するでしょう」と教えられた。お妃が「私の悩みが消えて安産がかなえれば太子と共に仏道に心と力を合わせて精舎(寺)を建て衆生〈しゅじょう〉を済度〈さいど〉(救うこと)することを誓います。」とこれに答えられたところ、その願いが通じ不思議にも老蘇の森の西南から金色の光明が差してきて仮御所を照らした。するとあれほど苦しんでおられたお妃が、まばゆい金色の光の中で、楽に王子を出産された。
お妃は大変喜ばれお側人にその光の源を探らせると、老蘇の森の西南三十丁余りの所に小山があり、その頂上に一つの霊石とその傍らに古びた大木が朽ち倒れており、その大木から芳ばしい香りと瑞光が輝き出ていた。太子とお妃はその地を訪ねられ、霊石は観音居所の補陀洛より来たものであり、香木は仏生国(インド)の栴檀〈せんだん〉の木であり不思議なめでたいことであると言って、かねて念願の仏像を作り安産の恩に報いるため、より多くの迷い苦しんでいる人々を救うことを決意された。

太子堂(木村)
太子堂(木村)

其の八 蒲生の近江商人①

近江商人とは、近江の国(滋賀県)から他国(他府県)へ出て商業活動を行い成功した人を言います。当蒲生地区において近江商人は鎌倉時代からはじまり、江戸時代の中頃から大正時代に掛けて多くの近江商人を輩出しました。その中で簡便で多くの印刷が可能なパソコンが普及するまで活躍した謄写版(ガリ版)は官庁・学校などの公用から民間でも多く使用されました。
この発明者は、代々醸造業を営んでいた近江商人の堀井家に婿養子として、現竜王町駕輿丁〈かよちょう〉から迎えられました。  
初代新治郎氏は土山の内務歓農局出張紅茶伝習所に入所し、製茶巡回教師や製茶審査員などを歴任した中で、繁雑な文書処理を簡素に処理できないかと常に考えていました。
明治26年(1893)に退職し、海外の印刷事情を求め渡米しシカゴの万国博覧会場でエジソンが発明した「ミメオグラフ」に遭い、帰国後、義理の子耕造と共に発明に没頭し、その間資金に苦しみ当地の財産を無くして東京へ、明治27年に一号機を、翌28年に原紙を発明し完成させ、80年のヒット商品となりました。蒲生岡本町のガリ版伝承館には、多くの人々が訪れています。

ガリ版1号機(岡本)
ガリ版1号機(岡本)

其の九 蒲生の近江商人②

近江商人として明治時代に北海道へ渡り海産物の加工で財を成した人々がおられる。その中の一人、石塔出身の宮本武之助氏は庄屋で醤油業の商家の二男として明治元年(1914)の生まれで、実兄宮本治郎右衛門氏は熱心な念仏修行者で、夢の中に寺院の姿を見てそのまま寺院と庭を具現化し、お寺を建立したといわれ石塔町の専修寺がそれである。
 武之助氏は、18歳頃単身北海道に渡り函館で海藻屋(こんぶ・わかめなど)を開かれ、その後海鮮問屋を経営して財を成し、地元石塔町若宮神社の石鳥居や還暦祝いに多賀町多賀大社の石鳥居などを寄付されて、篤い信仰心を示されている。また、函館市長にも就任され函館市政に貢献されて、名誉市民賞を授与されています。
 多くの近江商人は故郷への錦を飾ることをよしとして、故郷を思い精励努力を惜しまなかった。

若宮神社鳥居(石塔)
若宮神社鳥居(石塔)

其の十 蒲生の近江商人③

 日本でビールが製造されたのは、明治初年から横浜で始められ明治3年頃には外国船の乗組員を相手に販売されていました。
この最先端のビール製造に当蒲生の先人も挑戦しました。綺田町の野口忠蔵家は当時甲府で十一屋の屋号で醸造業を営んでいました。その5代目となるべき正章氏が明治2~3年頃よりビールの試験醸造を始め、明治5年にアメリカ人コープランド氏を招き甲府で創業しました。しかし、コープランドは横浜で起業していたので忙しく、弟子の村田吉五郎氏の指導を得て明治7年(1874)に三ツ鱗〈みつうろこ〉麦酒の商標で販売されました。
明治8年には京都府博覧会に出品して銅製賞牌を受賞しています。しかし、販売先が東京方面であったため防腐技術の乏しい時代、その輸送中に腐敗し商品にならないことも多かったのです。また、ビール醸造の外国製機器や材料の購入費とその運搬費の負債が重なり、明治15年(1882)ビール業を断念すると共に、大津で書店を経営していた弟富蔵氏(5代目忠蔵)に家督一切を譲り、東京に移住して大正11年(1922)74歳で逝去された。ビール業は富蔵氏が数年後に復興し明治34年(1901)まで続けられました。

ビールラベル三つ鱗(綺田)
ビールラベル三つ鱗(綺田)

其の十一 蒲生の近江商人④

昭和時代の男性化粧品の代表「ポマード」はサラリーマン男性の象徴的な七三に別けた頭髪、若者はリーゼントが格好良さには欠かせないアイテムでした。この化粧品を製造販売していた柳屋は、東近江市桜川西町出身の外池家で、江戸中期の宝暦年間(1751~1763)に宇兵衛教意(または敬意)が志を抱いて、中山道を下り下野〈しもつけ〉国(栃木県)那須郡に薬種業を開き「近江屋重治郎」といわれました。 
商いが安定したころ、当時この近辺では濁酒(にごりざけ=一般にドブロク)しかなかったので清酒の醸造を始め、火災などに遭ったが商機をつかみました。2代目正西は弟半兵衛明願と共に繁盛させて天明初め(1781頃)に奈良屋煙草店、柳屋油店を買い取りました。
郷里の下小房〈しもおぶさ〉(桜川西町)の飲料水用に佐久良川の伏流水を利用する「宝水」を開き、三代目宇兵衛正意は田用水に「新溜」の建設、四代目正諠は小学校・近江鉄道の開通に私財を投じ故郷に貢献されている。

東小旧校門(桜川西)
東小旧校門(桜川西)
宝水(桜川西)
宝水(桜川西)

其の十二 蒲生の近江商人⑤

鋳物師出身の竹村茂兵衛は享保17年(1732)に生まれ、家は農家で貧しく幼少より大阪の商家に奉公に出て日夜精励し、毎夜故郷を思い天満天神へ参拝していた。

 

ある夜天満天神の欄干にもたれて眠りに陥った時、”一場の霊夢“を見て主家を辞し、両親の許しを得て、主家からの給金を資本に行商を初め、宝暦13年(1763)下野〈しもつけ〉国(栃木県)谷田貝〈やたがい〉町(市貝町)で醤油製造を、32歳で起業し屋号を天満屋とした。奉公人を慈しみ、義侠心に富み、孝心が篤く、奉公人には常に親を大切にするよう勧める人でした。一方商売では、醤油の材料(大豆・小麦・塩・水)は吟味してしかるべき所から、また、良い品を安く売るための「ためし所」を設けた。醤油の圧搾には古い米袋を用いたり、安い木綿を買い故郷の鋳物師へ袋縫いの内職に出した。


醤油粕から油を抜くことに着目して「醤油粕御試油製法所」をつくり、油は灯油、粕は肥料として販売した。そのほか、モロミは1年の熟成期間を1年半とした良品をつくり販売した。醤油の販売は樽売りにして、無くなるころに醤油の詰め替えを行い、樽は酒の古樽を作り直すなどして使用するなど、倹約と高品質さらに顧客管理に勤め、実子3人は本店・支店に別け蔵元・問屋・小売りの分業として商売は繁盛しました。


田養水の乏しい故郷鋳物師町には、長男の太左衛門と共に土地の購入から人夫賃まで一切を引き受け文化11年(1814)に内座ケ谷溜・徳円谷溜を造り田養水としています。しかし、茂兵衛は完成を見ることなく文化10年(1813)3月に亡くなっています。長男の太左衛門は明治27年(1894)に竹田神社境内に能舞台(市指定文化財)を建築寄付しています。

大溜(鋳物師)
大溜(鋳物師)
竹田神社能舞台
竹田神社能舞台
武田能
武田能

其の十三 狩野山楽

安土桃山から江戸時代に懸け活躍した、京狩野の祖と言われている狩野山楽は、蒲生地区木村町で永禄2年(1559)に、浅井長政の家臣木村永光の子として生を受け、幼名平三と言われています。
父永光と共に、狩野元信に画を学んでいた。浅井が敗れてのち永光は、豊臣秀吉に仕え、平三も光頼と名を改め、秀吉の小姓となって15歳の時、秀吉の長浜城築城臨検にお供した。その時、光頼が杖で砂上に馬の絵を描くのを見て秀吉は感心し、当時の巨匠狩野永徳に付いて、画を学ばせ光頼の画才が大きく開き、永徳の養子となり木村姓から狩野修理亮と名乗りました。
その技量が大きく開花したのは、天正16年(1588)落雷で損傷していた、東福寺法堂の室町時代を代表する画僧明兆の描いた雲龍図の天井画を修復することになり、師永徳が雲の部分の修復に懸かると急病にたおれ、修理亮光頼が後を託され明兆の雲龍図をすべてはがし、板に胡粉を塗り、身の丈50㍍にもなる雲上にどくろを巻く蟠龍図を描き、一躍名声を得ました。
慶長20年(1615)大阪城落城の時、身の危険を感じ男山八幡宮に身を隠していましたが、松花堂昭乗の取りなしにより徳川家康を駿府城にお目見えして許しを請い、受け入れられ京都に帰った光頼は、剃髪して狩野山楽と号するように、「京狩野の祖」と呼ばれています。


其の十四 野口小蘋(のぐちしょうひん)

蒲生の近江商人野口忠蔵家は下野国(栃木県)の造り酒屋として財を成し、当主正忠は自身杮(し)村(そん)と号し、書家や画家、詩人などと交流した好学の人でありました。その長男正章に嫁したのが小蘋です。小蘋は、弘化4年(1847)大阪で医師松邨春岱(しゅんたい)の娘として生まれ。名は親(ちか)、字(あざな)(別名)は清婉(せいえん)といいます。小蘋は「小さな浮き草」という号である。4歳のころより絵を描くことが好きであった。14歳の時、父春岱が病に倒れ人に請われるまま席上揮毫をして報酬を得る。その後文久年中(1861~63)に京都に住まいを移し、堺出身で山水画を得意とし、筆墨も雄々しく力あふれる筆法の中に、詩情のある絵を描いた、幕末関西南画壇の第一人者の日根対山(1813~69)に学びました。
また、女性ながら漢詩文にも興味を持ち漢籍は小林卓斎に、詩は岡本黄石(彦根藩士正忠と親交があった)に師事し、明治4年(1871)に東京に移って活躍しました。明治10年(1877)に桜川村綺田の正章と結婚。明治15年(1882)に再び東京に出て、皇室を初め各宮家の御用絵を描き、華族女学校の教授を務めたほか多くの作品を発表し受賞しました。当時活躍していた奥原晴湖とともに、明治女流画人の双璧といわれ、大正4年(1915)の天皇即位式には御用屏風は主紀田を竹内栖鳳、悠紀田を小蘋が揮毫し、大正6年(1917)71歳で逝去しています。

野口小蘋肖像
野口小蘋肖像

其の十五 蒲生の刀匠

応永年間(1394~1427)に蒲生石塔寺の近くに備前長船〈びぜんおさふね〉(岡山県)の刀工助久が移住し福岡一文字派助宗の流儀を伝え石堂(石道)派の祖となったと言われています。その後、この流派は途絶えていましたが、第9代将軍足利義尚〈よしひさ〉(1465~89)が佐々木高頼〈たかより〉追討〈ついとう〉のため栗太郡鈎〈まがり〉の里(栗東市上鈎町)に陣を構え(鈎の陣)(1487~89)陣中に備前長船の刀工勝光・宗光以下60名が呼び出された。
長享〈ちょうきょう〉2年(1488)8月22日に陣中にて拝謁し、同9月21日から陣中で刀を鍛〈きた〉え、その後3年を経た明応元年(1492)石塔の事を伝え聞いた長船派の助長〈すけなが〉が石塔に移住して石堂派を再興しました。この流派はその後、武蔵〈むさし〉・紀伊〈きい〉・山城・長門〈ながと〉・周防〈すおう〉などに分住し、古刀期(奈良~安土桃山)、新刀期(江戸時代)、新新刀期(明治~)と受け継がれています。しかし、発祥の地、蒲生では石塔の他、上小房(桜川東町)で文亀年間(1501~3)に石堂派の助光〈すけみつ〉が作刀しているがいまはその伝承もなくなっています。


其の十六 呉媛〈くれひめ〉伝承

鋳物師町二宮公園には、呉姫(呉媛)神社の小さな祠と、ご神体の謂われが記された文政元年(1818)に建てられた碑が残ります。


中国呉の時代(229~280)機織りの技術を持った女性工人(呉服〈くらはとり〉)を招き機織りの技術を広めたので機織りが盛んになり、女性が機織りや裁縫が上達し手先(手末〈たなすえ〉)が器用になるようにと、その先祖の呉媛を稚日女命〈わかひめのみこと〉とご神体としてお祀りし、朝夕灯明を点け、お供えをしてお詣りをしたと伝えられている。ご神体は明治時代に竹田神社境内の小姫神社へ遷されました。

呉姫社(鋳物師)
呉姫社(鋳物師)
小姫神社(鋳物師)
小姫神社(鋳物師)

其の十七 近江で短歌の花を咲かせた 米田雄郎

明治24年奈良県磯城[しき]郡川西村の農業を営む米田家の長男菊次として生まれ、尋常小学校を卒業すると、伯父が住職を勤める香具山村の法念寺へ寄寓、そこで飛鳥高等小学校へ。


明治40年大阪市の上宮中学校へ入学後、短歌を作り始め投稿し若山牧水の添削を受けた。明治44年前田夕暮が短歌雑誌『詩歌』を創刊すると、すぐに入社し、短歌を投稿、以来40年間師事して歌の道を歩んだ。大正2年に白日社を訪ねて前田夕暮に会い、この後、米田雄郎の名で歌を発表するようになりました。

 

大正4年前田夕暮等と、初めて合同歌集白日社歌集『発生』に参加した。大正6年第一歌集『日没』を出版。大正7年2月滋賀県蒲生郡桜川村(現東近江市)石塔の極楽寺住職に任命され移住、同9月~大正13年まで桜川尋常高等小学校の代用教員・教員として勤めた。大正11年休暇で帰省した野口謙蔵との交遊が始まり、この頃から県下の歌人愛好家を集めて短歌を指導する。大正15年佐後淳一郎・木村緑生らと滋賀県歌人連盟を結成し、歌会の指導、歌集の出版、昭和17年滋賀県歌人会の年刊歌集発行など多彩な活動で多くの弟子が集まり、近江の短歌文学の花を咲かせることになりました。

 

昭和27年1月『好日』を孔版印刷で創刊(6月7号より活版印刷)し現在も多くの歌人を育てる基となり、多角的・精力的に活動したが、惜しまれながら、昭和34年3月5日に69歳で没しました。

米田雄郎氏(石塔)
米田雄郎氏(石塔)
米田雄郎歌碑(石塔)
米田雄郎歌碑(石塔)

其の十八 洋画家の鬼才といわれた 野口謙蔵

明治34年6月に、蒲生郡桜川村(現東近江市)綺田の酒造家野口正寛[まさひろ]の次男として生まれた。正寛は文化に関心をもち、明治22年(1889)町村制施行の桜川初代村長を務めた人であった。

 

謙蔵彦根中学校のとき描いた水彩画「彦根城山大手橋」が、陸軍特別大演習で来られた大正天皇により皇室へお持ち帰りとなりまし。このときから絵画への努力が一段と重ねられ、大正8年(1919)

19歳のとき、東京美術学校に入学して、黒田清輝や和田英作から指導を受けました。

 

大正13年(1924)に卒業し郷里綺田へ帰りました。しかし、自作の洋画について悩み日本画を学びます。帝展第15回(1934)に出品した「霜の朝」は3回目と特選となり、以来、近江風景画に独特の日本画的構図を示し、筆致にすばらしい才能を発揮し、多くの傑作が生まれ、人々の共感を受けました。
また、昭和18年(1943)には新文展の審査員に推挙されています。昭和19年7月5日に44歳の若さで没しました。また友人にどうして皆、フランスに行きたがるのかと尋ねられると、「滋賀県にもこんなに見飽きぬ美しい所が幾らでもあるのに」と言ったと語られています。

野口謙蔵画_冬日
野口謙蔵画_冬日
謙蔵氏肖像画
謙蔵氏肖像画

其の十九 蒲生を訪れた人々①

放浪の俳人といわれ、中国/四国/九州を主に近畿/東北平泉地方をも行乞の旅を続けた俳人種田山頭火〈たねださんとうか〉、蒲生へは昭和14年(1939)4月中旬、前田夕暮を通じ知り合いだった石塔極楽寺の住職米田雄郎に会いに来た、雄郎は洋画家野口謙蔵宅へ連れて行き紹介、2日間極楽寺で滞在し大いに歓待されて過ごしたようである。


 散ったり咲いたり やうやう逢えた (雄郎和尚に) 《山頭火大全集》
 あおじ朝なく庫裡  からりと開け放して  山頭火と坐る
 翁のきびしいこころ  酒をのんで  さめることをおそれている 

雄郎《忘却より二首》

 

山頭火は、明治15年(1882)山口県西佐波令村(現・坊府市八王子)の大地主の旧家に生まれる。母は山頭火満9歳の時、投身自殺、この後早稲田大学の前身校に入るも神経衰弱になり退学、一時酒造業を父とするも倒産、結婚し長男が生まれるが酒に溺れ、明治44年(1911)山頭火のペンネームで小説の翻訳、句会に入り活躍。雑貨商「雅楽多」を営むが妻に任せ放浪の旅が始まる。電車を停め禅寺へ連行され仏門へ、山頭火は自身の環境の変化に添いきれず、放浪と行乞の旅により自身の立ち位置を求め彷徨ったのだろうか、蒲生に寄った翌年昭和15年(1940)10月自身が主催の句会の時大鼾をかいて寝ていると句会の人々は思っていたが、心臓麻痺によりそのまま59歳で旅立った。

極楽寺
極楽寺
種田山頭火
種田山頭火

其の廿 蒲生を通った人々②春日局(1579~1643)

蒲生地域を通る街道は、鈴鹿峠から近江国に入り土山宿から草津宿の東海道、関宿から近江国に入り柏原宿から草津宿に至る中山道である。これらの街道が関ヶ原の戦い後に整備され、人馬の往来が多くなるなか、土山宿と愛知川宿を結ぶ脇往還として、伊勢大道などと言われた御代参街(海)道(慶応3年以降)に、寛永17年(1640)4月伏見奉行小堀遠江守の御触書に「春日の局が、5月伊勢神宮へ御参宮されたのち多賀大社へ御参社される」ので継ぎ立てを仰せ付けられています。
春日の局は、慶長9年(1604)家光出生に際し板倉勝重〈かつしげ〉の推挙により乳母となり、寛永6年(1629)後水尾天皇が幕府の処置に対し逆鱗し譲位の意志を示すさなか、局は大御所秀忠の内意を受け上洛し、参内して天盃を賜り「春日局」の号を許されました。
これまで御代参街道の宿駅は、鎌掛宿(日野町)・岡本宿(東近江市)・八日市宿(東近江市)の三宿で小規模でしたが、この時整備され石原宿(日野町)が設けられ、岡本と合宿となりました。石原宿は鎌掛宿から八日市宿への「上り片継」、岡本宿は八日市宿より鎌掛宿への「下り片継」となるが、岡本宿のみでは継ぎ立てが維持困難となり近隣の村々に助っ人を頼む「助郷〈すけごう〉」の制度化も進みました。

春日局
春日局

お楽しみいただけましたか?

まだまだ、蒲生には様々なお話しが眠っています。

ぜひ訪れた際には探してみてください。

 

※本ページの「蒲生の話し」は、蒲生地区まちづくり協議会発行広報誌「がまチョコ」連載中の「蒲生の話し」より引用・抜粋して掲載しております。「がまチョコ」掲載時より若干の変更があるのはそのためです。あらかじめご了解くださいませ。