日本でビールが製造されたのは、明治初年から横浜で始められ明治3年頃には外国船の乗組員を相手に販売されていました。
この最先端のビール製造に当蒲生の先人も挑戦しました。綺田町の野口忠蔵家は当時甲府で十一屋の屋号で醸造業を営んでいました。その5代目となるべき正章氏が明治2~3年頃よりビールの試験醸造を始め、明治5年にアメリカ人コープランド氏を招き甲府で創業しました。しかし、コープランドは横浜で起業していたので忙しく、弟子の村田吉五郎氏の指導を得て明治7年(1874)に三ツ鱗〈みつうろこ〉麦酒の商標で販売されました。
明治8年には京都府博覧会に出品して銅製賞牌を受賞しています。しかし、販売先が東京方面であったため防腐技術の乏しい時代、その輸送中に腐敗し商品にならないことも多かったのです。また、ビール醸造の外国製機器や材料の購入費とその運搬費の負債が重なり、明治15年(1882)ビール業を断念すると共に、大津で書店を経営していた弟富蔵氏(5代目忠蔵)に家督一切を譲り、東京に移住して大正11年(1922)74歳で逝去された。ビール業は富蔵氏が数年後に復興し明治34年(1901)まで続けられました。