鋳物師出身の竹村茂兵衛は享保17年(1732)に生まれ、家は農家で貧しく幼少より大阪の商家に奉公に出て日夜精励し、毎夜故郷を思い天満天神へ参拝していた。
ある夜天満天神の欄干にもたれて眠りに陥った時、”一場の霊夢“を見て主家を辞し、両親の許しを得て、主家からの給金を資本に行商を初め、宝暦13年(1763)下野〈しもつけ〉国(栃木県)谷田貝〈やたがい〉町(市貝町)で醤油製造を、32歳で起業し屋号を天満屋とした。奉公人を慈しみ、義侠心に富み、孝心が篤く、奉公人には常に親を大切にするよう勧める人でした。一方商売では、醤油の材料(大豆・小麦・塩・水)は吟味してしかるべき所から、また、良い品を安く売るための「ためし所」を設けた。醤油の圧搾には古い米袋を用いたり、安い木綿を買い故郷の鋳物師へ袋縫いの内職に出した。
醤油粕から油を抜くことに着目して「醤油粕御試油製法所」をつくり、油は灯油、粕は肥料として販売した。そのほか、モロミは1年の熟成期間を1年半とした良品をつくり販売した。醤油の販売は樽売りにして、無くなるころに醤油の詰め替えを行い、樽は酒の古樽を作り直すなどして使用するなど、倹約と高品質さらに顧客管理に勤め、実子3人は本店・支店に別け蔵元・問屋・小売りの分業として商売は繁盛しました。
田養水の乏しい故郷鋳物師町には、長男の太左衛門と共に土地の購入から人夫賃まで一切を引き受け文化11年(1814)に内座ケ谷溜・徳円谷溜を造り田養水としています。しかし、茂兵衛は完成を見ることなく文化10年(1813)3月に亡くなっています。長男の太左衛門は明治27年(1894)に竹田神社境内に能舞台(市指定文化財)を建築寄付しています。