◎蒲生の人々

近江で短歌の花を咲かせた 米田雄郎

明治24年奈良県磯城[しき]郡川西村の農業を営む米田家の長男菊次として生まれ、尋常小学校を卒業すると、伯父が住職を勤める香具山村の法念寺へ寄寓、そこで飛鳥高等小学校へ。


明治40年大阪市の上宮中学校へ入学後、短歌を作り始め投稿し若山牧水の添削を受けた。明治44年前田夕暮が短歌雑誌『詩歌』を創刊すると、すぐに入社し、短歌を投稿、以来40年間師事して歌の道を歩んだ。大正2年に白日社を訪ねて前田夕暮に会い、この後、米田雄郎の名で歌を発表するようになりました。

 

大正4年前田夕暮等と、初めて合同歌集白日社歌集『発生』に参加した。大正6年第一歌集『日没』を出版。大正7年2月滋賀県蒲生郡桜川村(現東近江市)石塔の極楽寺住職に任命され移住、同9月~大正13年まで桜川尋常高等小学校の代用教員・教員として勤めた。大正11年休暇で帰省した野口謙蔵との交遊が始まり、この頃から県下の歌人愛好家を集めて短歌を指導する。大正15年佐後淳一郎・木村緑生らと滋賀県歌人連盟を結成し、歌会の指導、歌集の出版、昭和17年滋賀県歌人会の年刊歌集発行など多彩な活動で多くの弟子が集まり、近江の短歌文学の花を咲かせることになりました。

 

昭和27年1月『好日』を孔版印刷で創刊(6月7号より活版印刷)し現在も多くの歌人を育てる基となり、多角的・精力的に活動したが、惜しまれながら、昭和34年3月5日に69歳で没しました。

米田雄郎氏(石塔)

米田雄郎歌碑(石塔)