◎蒲生の人々

野口 少蘋(のぐちしょうひん)

蒲生の近江商人野口忠蔵家は甲府(山梨県)の造り酒屋として財を成し、当主正忠は自身杮(し)村(そん)と号し、書家や画家、詩人などと交流した好学の人でありました。その長男正章に嫁したのが小蘋です。小蘋は、弘化4年(1847)大阪で医師松邨春岱(しゅんたい)の娘として生まれ。名は親(ちか)、字(あざな)(別名)は清婉(せいえん)といいます。小蘋は「小さな浮き草」という号である。4歳のころより絵を描くことが好きであった。14歳の時、父春岱が病に倒れ人に請われるまま席上揮毫をして報酬を得る。その後文久年中(1861~63)に京都に住まいを移し、堺出身で山水画を得意とし、筆墨も雄々しく力あふれる筆法の中に、詩情のある絵を描いた、幕末関西南画壇の第一人者の日根対山(1813~69)に学びました。

また、女性ながら漢詩文にも興味を持ち漢籍は小林卓斎に、詩は岡本黄石(彦根藩士正忠と親交があった)に師事し、明治4年(1871)に東京に移って活躍しました。明治10年(1877)に桜川村綺田の正章と結婚。明治15年(1882)に再び東京に出て、皇室を初め各宮家の御用絵を描き、華族女学校の教授を務めたほか多くの作品を発表し受賞しました。当時活躍していた奥原晴湖とともに、明治女流画人の双璧といわれ、大正4年(1915)の天皇即位式には御用屏風は主紀田を竹内栖鳳、悠紀田を小蘋が揮毫し、大正6年(1917)71歳で逝去しています。

野口少蘋肖像