大塚町から蒲生寺町へ通ずる道路の中程、北側の林の中に存在する古墳群である。もとは5小群からなる10基の円墳からなる古墳群であったが、戦後の新田開発で6基、昭和38年(1963)の農地開発に伴い、2基は農地となり、その時滋賀県教育委員会が、良好な2基(6・8号墳)の調査を行い現存している、何れの古墳も、墳丘径17~18m、高さは良好なものでも2m程の円墳であったといわれている。
6号墳、古墳群のほぼ中央に位置し、第3小群に属していた墳丘径約18m、現在高さ0.8m(復元高さ2m)で主体部は組合式木棺を直葬(6枚の板を箱にして遺体を入れ、土壙内に直接木棺を埋葬する)していて、2次に亘って追葬され4基の木棺が検出されている。
8号墳、6号分に近接し第4小群に属し墳丘径105m、現在高さ0.5m(復元高さ2m)で主体部は組合式木棺を直葬し2次に亘って追葬される5基の木棺が検出されている。埋葬品は須恵器の高杯(たかつき)・壺など少量である。この古墳群は6世紀後半に築造され、7世紀初頭に追葬が終わったと考えられている。木棺直葬は横穴式石室以前の群小古墳にみられ、横穴式石室盛行後のものはモズらしく、異質の文化を持った民族の古墳ではないかと推察されている。